昭和43年02月01日 月次祭
案内なくすぐ御理解始まる
寒修行もあと3日、皆さんが一生懸命朝参りをなさいました。今度は初めての方達が殆どでございます。どうあってもお参りが出来そうにもない様な方達が、お参りになられました。それももうあと3日、2,3,4と3日間残っておる訳でございます。まだ寒修行に出ておられないお方は、椛目の方達にそういうお方がありましたら、まだ3日残っておりますからせめて3日でも寒修行のおかげを頂かれるといいですね。
それでひとつおかげを頂こうと、お参りをさせて頂こうと思いましても、目がさめなかったり、またいろんな事情のためにお参りができなかったり致します。おかげを頂かなければいけません。どんなに綺麗に草花が入れてございましても。水を入れておらなければすぐ萎れてしまいます。私共が確かにお参りさせて頂こうと思う。寒修行にこれもおかげを頂きたいと思う事は関係なしに思うたんだけれども、御恵みがなからなければお参られません。お許しを頂かなければ参られません。
やはり許されなければなりません。花を綺麗に活けてあります。それがお水がさしてなかったら、もう明くる日はボシャとなってしまう。ですからお願いをしてお恵み頂けなければ、はぁ神様のおかげで目を覚まさして頂いたのなら、または神様のおかげで、こういう事情もお参りさして頂ける事情に御繰り合わせ頂いたんだなぁと。と次々とそこから御恵みが出て参りましてから、初めてお参りが出来るんですよ。だからその思うただけではいけません。御願いをしなければいけません。
綺麗な花を入れただけではいけません。それに水をささなかったら私は絶対に思いが叶いません。それもうあと3日でございます。寒修行といわゆる銘うって朝の御祈念にお参りさせて頂きますのは、本当にあの有り難い事はこの合楽の場合いつもですけれども。ちり一つの事をこうやってお参りさせて頂きますと、だんだん段々尻上がりにおかげを頂いてまいります。段々お参りの数が増えておる。初めの間はパアーと多かったけど段々少なくなったと言うのでなく。段々多くなってくる。
それでもまだまだ寒修行の味を知らない人がある。朝参りの味を知らない人がある。遠いから近いからじゃない。問題はその気になるかならないか、そしてその気になって願うか願わないか。今日久留米の笠さんが毎朝あぁして参って見えます。それでこの頃からの須田先生の話を聞きに見えとったと思うておったんです。ちょうどあの写真が出来て。この前写真がが出来ましたときいたら。もう先生この度だけはもう自分の商売がうらめしゅうなりましたっち。
なっしですかと言うたら。もうとにかくお客さんからやぁの言われてとうとう、先生のお話を頂く事が出来ず、あらぁそんなことじゃったですか。はぁ今度のお話は頂かなきゃならじゃったですね。合楽に御縁を頂く人の信徒の言うならば皆んな御縁を頂かなきゃならなかった。でなかったらですね、これから合楽の信心が新たにその展開してくる対してとに動機がつかめない。はぁ惜しい事でした、いやぁそれを母から聞きました。そしてほんとに惜しい事だったと思いますとこう言います。
そらぁなぁ簡単な事、商売をぼすと断ってくりゃえぇこと。もう簡単な事でしょうが、それを断らんからそりゃ断るにも事情があると言やぁそれまでの事。同時にまた貴方がほんとにそれを聞いてあったなら、なんでお取次ぎ頂いて願ようるごとならじゃったですかと私は申しました。まぁこれからなら参って来なさる、既においおい話は致しましょうけれども。そりゃ惜しい事でしたね、この写真をご覧なさい。もうそれこそ大祭の時よりも盛況でしたよ。そう言うてお話した事でございます。
あと3日間残っとります。といういう感じをそれをどうでもまだ御縁を頂いてない人。ここでのご信心を家族の中でもまだお参りしてない人。そういう人がありますならです、これもあと3日間はもうどうでもこうでも一つ、おかげを頂いてね。寒修行にお参りをさして頂いたと言う事にならなければならない。是は何事にでもそうですけれどもです。真心というものはこの、「せめて」と言う事なんです。「せめて」「せめて」これだけならさしてもらわなければ。
「せめて」これくらいなおかげを頂かして貰わなければ、その「せめて」がでらなければいけません。これだけ広大なおかげを頂いておりながら、これだけの広大なおかげを頂ながら。この度の寒修行に1日も出て来れなかった。神様に対して申し訳がない。言い分けが出来ん。それは忙しいからと言い訳。そげなこと言い訳にゃならん。ですからあと3日残っておりますから、その3日ほどで仕事を休んででも断ってでも、どういう事情があっても。せめてあとの3日だけはもう全総信者がです。
3日間の修行を成就させて頂こうと。そういう私しは魅力にもれ。その事を神様にお願いするところにです、お参りが出来る、なるほど朝のお参りが有り難いと言う事も分る。修行のなんたるかと言う事も分る、修行の味わいが分らなかったらおかげは受けられん。今朝からの御理解を頂いて、幾人の方からそういう意味のお届をなさった。朝一番に秋永先生が。今日はもう大変な命を頂きました。大変な命をですたいね。と言うてから御理解ですから、御理解ですから、もういつも大変な御理解なんです。
いうならば椛目の御理解は、今日は御理解24節ですかね。付け焼刃の信心ではとれやすい、どうぞその身から打ち込んだ信心をしてくれとこういう、どうぞその身から打ち込んだ信心をさしてくれ。世に勢信心というが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声を揃えて持てば、持ち上がる様な道理じゃ。勢を揃えた信心をせよと言う、御理解に基づいての御理解でございましたね。はぁなるほど今日の御理解からその御理解が。はっきり解った、一日でそこということ。
何故付け焼刃ではいかんのかと、人に誘われてのしょうことなしの信心ではいかんのかと。その身から打ち込んだものでなけりゃいけんのかと言う事がです。今日の御理解を頂くと分る。今日の御理解を早速活字にしたい。朝からこの新聞の、御理解の中から何時も抜粋して、載っておりますのを御理解のうえにそれを書かして頂こうと言う事になっております。実にそのまぁ何と言うでしょうか、あれですかね離さん現在は、もう親先生今日の様な魅力のある御理解は本当に始めてでしたっち。魅力がある。
いまでん魅力がある。それはですね。もうお道の信心をさして頂く者には、合楽に御縁を頂いておる者の一人一人がです。億万長者になれると言う御理解だったからです。ある意味ではですね。ほんなこっちゃろかちゅう。だからせめて周りの人からその御理解を頂いてから、先生ほんなこっちゃろかとちゅたろかごたるふうに思うというた訳です。私しはですね。今日の御理解中に、本当にここに御神意を頂いて、今朝この御理解を頂いておる、一人一人に億万長者になって頂きたい。
ならせたいと言う神様の切実な願いだと、私しは申しました時にですね。もうおお広前いっぱいに広がる様なおいさみたったんです。久留米の石橋先生の一番の方から、頂いておったそうでございますけれども。あちらもですね。いかに神様をほんとに、今朝の御理解を本気で頂かしてもらい、その御理解の意味がわかり、そういう信心が本当にじょうにんに現れてきたらです。もう皆んなが億万長者になられるという御理解だったんです。だからその新聞にもしその掲載いたしましてです。
そのまぁ講題なら講題と言うものを書くならです。一人一人がお道の信奉者一人一人りが億万長者になれる道と。金光様のご信心とはそういう道なんだ。そう言う風に書かして頂いたね。ですからなるほど魅力がある。おかげ頂かにゃいけませんね。そこで私共がですよ、なかなか出来ませんけれども、そこんところをひとつ出来ない所は見直し見直しして頂いて、せめて、せめてもという信心がなからなければいけないと私は思うのです。私も神様にそれこそ成り代わってる様に。
本当に今度の寒修行だけには、私しゃもう本当にそれを思うんですね。月次祭たんびんに私しはこりゃもう皆さんに頼む様に。1セットどうぞ皆さん一日でもいいじゃないですか。2日でもいいじゃないですか。出来んといやぁもそれまで。寒修行に一遍なりと参加させて頂こう。と言う風に申しておりますがです、今日も皆さんにあと残っておる3日間をどうか十分な。理屈を言わず。成程そげな事情もあろうけれども、そこのところ私のごさいしておる3日の寒修行を、なんとかひとつおかげを頂きたい。
しかも願うだけじゃなくて。思うだけじゃなくて。思うた事を願わして貰い、そしてそこにお恵みのおかげ、いわゆる私向けというか。成程神様のおかげで目が覚めたと言う様な、おかげを頂いて、おかげを頂かして頂いたらどうだろう。お祭り前の今日の前講をちょうど総代の永瀬さんが、今日は文男先生がお話をするはずだったんです。ところが間に合いませんでしたから、永瀬さんが急に変わってお話しになりました。そのお話の中にも、この寒修行が始まって夫婦親子でお参りさせて頂いて。
ほんとうにいわば最近頂かれたおかげを頂いて。そこでこの2月28日があちらの恒例の謝恩宅祭りを頂いた。それで永瀬さんが思われた。こりゃせめて2月いっぱい28日のそれまでにこの修行を続けたいと思うて、お二人に話された。あらぁあなたもそげん思うとられましたか、実は私しもそげん思うとりましたと言う事になって、今月も寒修行の延長としておかげを頂くことに致しております。と言った様な話をなさっておられます。せめても、せめてもそうでもさして貰わなければ居られないのである。
そこを信心の段階ですから。様々でございますが、せめて1日でも2日でも、せめて残されておる3日でもと言う様にですね。そこんところに私しは、真心と言うものは生まれて来るとこう思うのです。最近須田先生のお話を頂きまして、私しはその前後から最近使っております言葉の中に、還元と言う言葉を使ってあります。須田先生は知ってや知らずや、もうその還元な生活が御出来になられておられる。今日もその中で須田先生とその事を話すんです。本当に素晴らしい事でしたですね。
素晴らしい先生ですね。素晴らしい体験の保持者ですね。しかもそれを35年間続けておられると言う事。今度のお話で分かったんですけれども。入信一年目には、成り行き勝負からスタートだった。田地田畑、それから山林を全部、人に判を捺したばっかりに、全部こう離さなければならないと言う時にです。もう入信一年いわばこう。もう信心のなんたるかを自分でも分っておられたんでしたから。だからもうその話し方がです美しい事ね。あの話に現れておる通り。
やっぱりあぁいう素晴らしい節をですね。有り難くしかも通っておられるもんだから、あぁいう後が簡単です、いわゆる。いわゆる無一物の中から超えておられますよね。無一物の中からあぁいうおかげを受けておられるから、なるほど惜し気もなかなければ、欲し気もない。実に坦々としてそのおかげを頂かれておったんですね。と言ってお話した事です。人間の真実の幸せと言うのは、天地に対する還元の生活から。しかも今日の御理解を頂いておる。それが当然のこととしての。
それが為される時に大変ないわゆる威力を発揮してくるわけなんです。天地は動じなさらる、天地は動きなさる。身や心の為に。いわゆる金光様の信心を頂いておれば病気することはありませんよ。貧乏することはないです。金光様の信心を頂いておれば、難儀な事はあるはずはないですよといわれる。自分自身が体験しておいでですから。それをあの須田先生の、あの信心からです。もう本当にもう泣こごたる。もう本当に難儀な問題、本当に難儀な問題。
お願い先生が参ると言えば毎日参って来る。おかげ頂き。もう本当に不思議におかげ頂いた。そして一定の時が過ぎたらまた昨日から参って来た。また今度は前と同じ様なお届け繰り返す。例えて言うならですね。だからそう言う様な事が繰り返され、繰り返されておかげを受けてもです。始らないんです。本当言うたら。そう言う様な難儀な事がもう出る、例えばすきがないほどの信心を頂かなきゃならん。
為にはその信心がです。こん次にゃ解らしてもろうてこう言う様な事から信心がなされていくところの生活。当り前の事としての信心生活。ここんところをですね。もう大変な条件でその御理解を頂いとりますから。皆さんも一遍頂かれるといいですね。それで頂かなければなりません。勿論新聞にも載ります。けれでもやはり頂かないかん。そつがない。ですからそこんところをですね。ま須田先生の様な、例えばその高度な信心が出来る筈ないんですけれどもです。
出来る筈なないと言うたらもうそれまでなんです。だからそこんところをいっちょ私しがせめても。せめてもという気持ちでの信心。還元と言う事は私はいろいろ思うて見ますとにですね。そのうこのう始末倹約は、これなんかはもう絶対還元ですね。大体なら10使うところをですね。8位にします。使ったら天地にお返しするのと同じ事ですよ。やはりなるほど甘木の親先生のなさったようなですね。ホゴ紙一枚でも神様の御物としての、なるほどあれで還元の生活が御出来になられたんだなと思うんです。
とういうてあのうしみったれと言うんじゃないですんもんね。こりゃまた神様に対して御無礼に当る。そうです神様がたとえば、100円の今日はそこへあの、なんかこう( ? )( ? )( ? )この幸を書いた桶がお供えになっとる。昔はあの北京におる時分にあの一桶が100円しとりました。昔ぁしまだ戦時中、と言う様に高価なもの。そういう例えばなら、ほりゃもうこげなもん食べよるならもう口が腫るる。勿体なかそれを食べたらもう神様のお三方あげたら何時まででんそれ。
腐れてしもうたらどうします。折角大坪さん記念祭だけがと思うてからあれしてござるところ。私しゃそういうおかげではない。けれどもです。もうなあぁにもならん。私は今日も末永さんに申しました。信心する者は疑う様な勝手な事を揃えなさんな。もう本当になあぁにもならんことに、何時まででちゃ問題にするから、もうここんとこにゃほかんものは入られんごたる風にしてから。親切に思う、思われるなら問題にする事でなし、でないと還元の生活は出来ない。私はそのそういうですね。
その無茶なね始末を付ければ出来る。しかもおかしくはない、と言う様な始末はね。せにゃいかんです。これなんかはなら私共は還元な生活は出来ない。ですからせめてこの位な還元の生活に入らなければ相済まんのです。せめての還元。今朝の御理解に中に頂いとりますと本当にこうして合格。もうそれこそ限りなく恵まれるところのお金のおかえし。いわゆる億万長者になるのです。お互いが還元の生活がしたい。ね。自分がなら、自分は何んにも出来ないから、せめて体でなっとというて御用させて貰う。
これが一人前の御用者です。けれどもお金を沢山持っておったら、人を雇うことが出来る。10人分でも100人分でも御用が出来る。それだけ大きな御用が出来る事。しかもこの御用がです。当然のことが為されてて行く時にです、100人分のおかげが受けられる事になるのです。そのためにでもどうぞお金のおかげを頂かなければいかん、もうこれは何よりもかによりもお金である。もう今朝の御理解じゃないけどそうです。その日暮らしてん何て可笑しゅうして、もう本当に億万長者になる。
その億万長者になる為にはです。こういう信心をしとかなければならない。いわゆる勢を揃えた、家族勢を揃えた信心をしとかなければならんのであり。付け焼刃の信心ではいけないのであり。進められてからしょうことなしの信心ではいけんのであり。どうぞその身から打ち込んだ信心じゃなからなければいけんのである。しかも家族を上げてである。はぁ今中々よか信心しとるけん億万長者にしては。主人が中々よか信心が出来けるけんで、ところが家内がなんとしよる、これではおかげの頂ける筈ないね。
ですからどうでも銘々がですここんところを分らして頂くところの信心に、家族を上げてならなければいけないと言う事です。そこにはですね、それがまぁ財産じゃあるならばそこのその財産としての、大変な働きをするおかげになってくるだろうと。なって来るだけじゃないなってくるという筈はない。私は本当に今日はですね。そのまぁ今日の御理解を私しゃ頂かして頂いてから。何時もの事ですけれども。今日御理解、御理解半ばにあの教典を開いたんです。
こういう難しい、教祖もとてもこげな素晴らしい事は説いちゃない、こりゃもう私だけがこげな素晴らしい御理解を頂いたが、果して教祖の神様は、これをどう言う様な風にこの事を説いておられるだろうかと。私しゃ思うたんです。それであのう教典を御話しながら開かしてもらって、見させて頂いたところが、御理解24節、はあぁもう私は畏れ入ってしもうてですね。はあぁほんなこてそうどころじゃない。そう所じゃないと思いながらです。皆さんにも聞いて貰う、ね。
そして合楽に御神縁を頂いておる一人一人の皆さんに、神様がどうぞ信心しておかげを受けてくれよと言う事は、今朝の御理解でどうぞ一人一人がです、億万長者の徳を受けてくれよと言う事である。と切実に神様が頼んでござるんだという。間髪入れず、お広前一杯に広がるおいさみですからね。もう神様が本当にそこがどこじゃないと言う。躍動のしるしをして下さるんです。そりゃもちろん今朝の雰囲気の中におらなければ解らん。お互いがね。ひとつあの時分に激しい、もうあたし繰り返しあがなことがあるんです。
信心には。いくらでももう後からバタバタしたっちゃかず立たない、今日私はあいつの事を御願しとっちゃ。そしたらね。アヒルがあの水面をバタバタして上に飛び上がろうとしている。ところがアヒルじゃもんじゃから飛び上がりきらん。本当はいかにバタバタしたっちゃかなわん時がある。ですからね。今こそ合楽のお広前にいこうした、特別の神様の働きがあっておる時に、私共が本気でひとつ特別の信心をさして頂いて、お徳を受けとかなければいけない。
私が皆に切々と願っておること、それはね。この寒修行の事は私が、私しは大体御理解を二編と続けて言う事ないです。だが意味合いが違うかも、角度の違ったことをです、そのことを同じことを言う事はあってもです。私は皆さんに立たんというてもです、私しが月次祭に4回にはじめからそう言う事はないでしょうが。それは私がおかげ頂かにゃいかんけんじゃないですよ。この寒修行という例えば汽車なら汽車に乗り遅れちゃならんと思うからです。
ですからせめて1日でもよいじゃないですか。後残された3日間はどうか何とかしてひとつ、寒修行のおかげを頂こうじゃないですか。せめて。先におかげを頂いて、おかげを落としてからまた。そりゃそれでもいいです。おかげを受けられる。( ? )でも繋いじゃる。分かるでしょう。そげんいいなさったちゃあなた参られませんから。という人はだから言うに。せめて、せめてそのしるしをなんとかして現す方法はないのかと言う事なんです。忙しい時に毎日毎日お参りして来たじゃないか。
ちゃんとおかげを受けたじゃないか。そこはそれでも人間だからね。出来んなら出来んにしましてもです。なら出来んで1週間に一遍なっと、日曜だけなりともせめて、という信心をさせて頂くことなら出来ん事なかじゃなないか。それをパスする。これじゃ元のもくあみになったちゃ私はしらん。それこそ仏教のものたてたならば、もうそれこそ仏の顔も3度までしまえるぞと。けどこの神様はこんな神様じゃない。
どんなに御無礼が出来ても、どうであってもまた詫びて来りゃ詫びれば赦してやりたいのが親心じゃと言う様な気持ちで。おかげがどうであってもそりゃそれまでの事なんです。なんというても今度の寒修行の圧巻は、やはり須田先生を迎えての信心研修会でございましたよね。お互いの脂がのりきっておる時。生き生きとして躍動しておる時に、お出でて頂いて来てもらい。計画的なもんじゃなかった。神様が須田先生を差し向けての合楽信奉者に対するところのね。
いわゆる合楽的信心から本当な信心へと、本当な信心へとこう教えてこう下さろうとする働きを感じた。ですからねそれをいま寒修行のひとつ、一日位出来ると言った様な事でですね、それをキャッチ出来る筈がない。後でそげな事言うて断って気の毒かっていう様な事でそん位な元気のない心でです。こんど言うておる所のひとつの合楽の信心の転換期にです、この次の汽車に乗ることが出来ない。今御縁を頂いておる人達全部がです今度の須田先生をこうして解らして頂いた信心にお互い飛躍して。
あとからまぁどれ程なんぼうおかげを頂くか分りませんけど、今朝の御理解でそれが、それこそ表の門に行って、表の門を出られただけでもおかげ頂けれる様にならなきゃならんのです。お賽銭をあげんでも表だけちょっと自動車止めてから、あすこを離れて行きゃ、今日1日おかげ頂けるくらいのおかげにならんけれどもです。本当にお互いが億万長者的信心の御神徳を身に受けさせて頂く。もうこりゃないチャンスなんだから。もって一丸となってそういう信心に進んで行こう。
そこにはね。この例えば寒修行にも参加できぬと言う様な事では、とてもとても腰折れではいかん。合楽に御神縁を頂いておってまだ、朝参りの味が分らん様な事で、だからお互いがまぁだそれに気づかんでおる人には、みんなそれを話し合って支え合ってです。それこそまぁだ1日間の寒修行に一つ精進しておかげを頂こうではないか。そこから神様が下さろうとしておる。神様が分ってくれと言うておられるそれを、解らして頂こうじゃないかと。という意欲に燃えたね。信心をさして頂きたいと思う。
今日私家内とそしていろいろ相談しましてね。4日の寒修行が終わります、4日の朝皆さんがでて見えられましたら、御祈念を頂き御理解を頂き終わって。皆さんと一つ会食をさして頂こうと。会食ちゅうてから、お粥さんの事です私が言う。家内が会食ちゅうけんなんかこの、大事の様に出来れるはずじゃと、そりゃほんな会食は会食ばって、お粥食たいて。そんならできんこたぁなかっですよ。婦人会の人二階にいきよるとを。あの伝えて大釜焚いて。
私しの方ではもうこれはもう命を繋いで来た食事なんです。お茶粥さんを出します。もうそれはですね。私も子供達も、3日も普通の御飯が続きますと、お粥さんはないかお粥さんはないかと言う位に、もうその馴染まれた食事なんです。でその茶粥さんを私が焚こうとおもうんです。これは私しがそれこそ今日の御理解でせめてもの。これはもうそれこそ難儀1俵の米を積み上げる様なおかげを頂かして頂いての、お客さんのないかある時は仕方がない。無いときゃ茶粥さんぞと。
日に一回は茶粥さん、しかも私しの方は2食。これはぜんぶ子供達も修行生も全部そうなんです。ここにも一つ還元の生活が出来ておるようですね。そうれでいうなら痩せ細っておるわけではないでしょうが。ちゃんと慣れればそげんになってくる。はぁ先生達が笑いよる。この合楽のもんならその( ? )( ? )この頃ではその気色になった。もう食べたと言う、もういかんぞというごと。そんくらいのこといくら食べたっちゃかまわんごとなる。そればって3合食べるしこ食べきらんです。
ほんなこつ、全員食べたっちゃそがしこ食べきらんでっちゃ天地に対して還元していきよる。そうでしょう。1回は会食、毎日毎日会食ですけん。おおごとじゃん、けども1辺頂いてみなさい、成程粥食をお茶粥さんは美味しいもんじゃなという。美味しいっていうよりもです( ? )( ? )そしたらあとからいうんです先生昨日広大なおかげを頂いて。もう普通( ? )して頂きました。そげに食べにくうはです。それでも私じゃないですか、もう最後の修行ですから。
もうひとつ粥食。今日の日曜日にも粥食のようですから、ひとつのほんのおちゃ粥さんのもう、出来るだけのところを、美味しいこりゃ他に采類、お漬物くらいで頂きます。そしてです私共が修行さして頂いて来た、それを偲んで頂くなら尚更有り難い。はぁこの粥食が大坪一家を支えてきた。この粥食がいわば、食生活の私共の修行の元である。どんなに遅配欠配の時でも、闇の米買わんでおかげで済んだ。
茶粥食のおかげであったね。しかもこれは私の代から、恐らく孫子の末までこの茶粥食は続くだろう。それをです例えばこの寒修行だけには、もうこりゃもう毎年、ね。はぁそりゃいっちょ粥食頂かれると言う様にそのしたいと思うとります。ですから茶粥食たべる様にひとつ皆さん連れのうてですね。いやほんなことあのこの頃先生たちに話しました。私しゃそんなぁ会食頂ける時だけ参っちゃどんこんでけん、きのどくかけんですね、そげな事なかです。
だからどうぞ一つあのう最後のこの修行をですね。4日の日をして、ま、でけたら修行中の体験発表でも、皆さんさして頂きながらおかげを頂きたいと思いますからどうぞよろしく御願い致します。せめてものと言う事を今日は大体中心に申しました。ですからそこんところをですね、お互いこうなりますと信心は非常にみやすいものになります。10の人が出来る、20の人が出来る。
まぁ5、か3、かしかできん。一つしか出来ん。ね。いわば30日間の寒修行に一日しかお参りせじゃったばって、せめてこのもうひとつ一日だけお参りした事になるのです。ですからそのせめての一日にも哀れみの様なことであってはなりませんから。さぁ今晩思うた、誰にも話そうと思うたけれどもです、それが成就しないではいけんでしょうが。花はさしたけれども水を注しとかなければいけませんから、そこのですね、御恵みの水を注し向けて頂くところの、おくりあわせ頂かなければ開花致しません。
しゃんと致しません。自分でだけ参ろうたって参られません。神様のお許しを頂かなければ出来ませんから。今日の私が笠さんに申しましたように、( ? )の。けれども何故お取次ぎを頂いてお願いが出来ませんでしたかと、私しはが申しましたら、そこん所に私しはなるほど、御願いをして行けばお参りのお許しを頂くと言う体験が生まれて来る。そこのせめてもの3日間をどうぞいよいよ有り難い、いわゆる会食大会に皆んなが参加出来る様におかげを頂いてほしいのでございます。
どうぞ。